〜「農民とともに」No.90〜



八千穂村健康管理
入院の第1位は結核
 環境衛生指導員たちは、主にハエ、カの駆除とか、赤痢など急性伝染病の予防のために、環境衛生に取り組んでいたが、人体の病気には直接手を下すことはなかった。これはあくまでも保健婦や看護婦の仕事だった。
 その中で、当時の農村の病気としてどうしても見逃すことのできない病気が2つあった。結核と脳卒中である。

健康教育に精出す井出今保健婦さん
 八千穂村の昭和33年度の国保疾患統計を見ると、国保加入者約6000人のうち、なんと入院では結核が第1位で205件(延べ人数)で、2位の精神病の73件を大きく離している。また人口1000人あたりの結核患者数をみると、昭和30年で11人、昭和35年には20人で、佐久管内では最も多かった。
 そこで結核対策が村の急務とされたのだが、昭和31年に合併した八千穂村に、新しく保健婦として入った井出今さんも真先に結核に取り組んだ。当面したいちばんの問題といえば、結核の家族内感染だったという。

家の消毒でひどい目に
 ある日、井出今さんは、1軒の家で3人も患者が出た家へ保健所といっしょに消毒に出掛けた。家を密封して徹底的にフォルマリンで消毒するのである。赤痢の大発生で住民は消毒には慣れていたが、結核の消毒は大がかりでとても嫌がられた。それに結核に罹患したことは他人には知られたくない。だから消毒にいくと、いつも家族から恨まれひどい目にあった。
 家族に「みなさん、消毒をするから外へ出てください」と言ったら、ちょうどその時、その家の総領の息子と2番目の息子が来ていた。そして消毒が終わったあと、井出今さんはその2人に強引に部屋へ閉じ込められてしまった。後でなんとか出してはもらったが、とても怖い思いをした。
 そこで助役さんに、「こんなことでは、とても怖くて仕事ができないからもうやらない」と言ったところ、助役さんがその家まで行ってくれて、「これは村としての仕事なのだから、保健所と村の衛生係に任せて貰わなければ困る」と家族を説得してくれた。それからその家は何も言わなくなったが、長い間そのしこりはとれなかったという。

住民組織で結核を克服
 衛生指導員ができる前、各地区には、衛生担当の衛生部長さんという組織がつくられていた。そして月に1回は役場へ集まって衛生部長会議というのを開いていた。これは村中から出ていたから、いろいろな点で保健婦と衛生部長さんとの連携はとれていた。
 ともかく結核をなんとかしなければと、井出今さんは各地区を回って、一人ひとりに胸部エックス線検診の受診を勧めて回った。これには衛生部長さんも協力してくれた。受診率はたちまち上昇し、遂に98%に達し、これは佐久管内では第1位の成績となった。約10年の取り組みで結核患者は次第に下火になっていった。
 これには、何といっても井出今さんの努力が第1だが、さらに当時の衛生主任の間島誠さんが、衛生部長組織をはじめ婦人組織など、全村の住民組織をいち早くつくり、それらをうまく利用したという点があげられよう。

布団の中はウジで一杯
 もう一つの問題は、脳卒中である。当時最も多い病気といえば高血圧だったが、それが原因で脳卒中を起こす人が多く、家でねたきりが当たり前になっていた。

畑八診療所で大下医師と。中央が須田さん。
 須田きみ子さんは、昭和27年から32年まで、村の畑八診療所に看護婦として勤めていた。午前は診療、午後は往診という日課だったが、ある日、長年ねたきりの病人の家族から往診の依頼があり、診療所の大下先生と一緒に出掛けた。
 家へ入るとなんだか変な匂いがする。寝ている病人の布団を取ってみると、陰部から異様な悪臭が漂ってきた。よく見るとウジ虫が一杯湧いていて、ハエが出入りしている。先生が火箸でウジ虫をはさんで出したら、中型のマッチ箱に一杯とれた。さらに尿でびっしょりと濡れていた布団を上げたら、布団の下の畳が腐り、またその下の床板まで腐っていた。
 誰かが倒れると、1カ月ぐらいは家族は心配し、3日おきぐらいに往診の依頼があるが、これが2カ月、3カ月となると往診の依頼もなくなり、家族も全く面倒をみなくなる。その家も久しぶりの往診だった。

訪問しても門前払い
 別な家へ行ったとき、褥瘡に新聞紙が当ててあった。「どうして?」と聞くと、「どうしてって、何も無えだもの」という返事だった。「こんなことで、バイ菌がはいったらどうするの」と須田さんは怒ったが、「何も無え」というのは本当だった。
 病人というものは、なるべく表へ出さず、人目につかない一番奥へ隠しておくというのが村では普通だった。それは農村のしきたりといってもよかった。とくに尿失禁があると、どうしても臭くなるので子どもも嫌がる。ときにはしんばり棒をかけて、戸が開かないようにしておくこともあった。
 だから保健婦や看護婦が尋ねて行っても、病人を見せてもらえない。ひどい場合は門前払いを食わされたうえ、「もう来なくもよい」と言われた家もあった。そういう家ほど病人の面倒をよくみていないのであった。
 平成の今でも、これに似た話はなくもないが、当時はどこにでもみられた。農村の悲しい現実がそこにあった。 
(かんとりい・とりお)

 この連載は、健管OBの松島松翠、横山孝子、飯嶋郁夫さん三人の共同執筆によるものです。“かんとりい・とりお”(country trio)とは「田舎の三人組」との意味。