〜「農民とともに」No.89〜



八千穂村健康管理
赤痢がきっかけ栄養改善
 「あの頃はみんな貧乏だった。俺の家は昭和27年から魚屋をやっていたが、魚なんて誰も買わない。菜っぱとみそ汁が当たり前の食事だった。今じゃ竹輪なんてごちそうじゃないが、これさえ盆と正月くらいしか食わなかった」と、初代衛生指導員会長の山浦虎吉さんは述懐する。
 村の保健婦として長年活躍していた井出今さんは、「私はちょうど穂積に赤痢が大流行した、昭和28年に役場に入ったけれど、その赤痢で穂積の女衆が目覚めちゃったんです。赤痢にならない体力をつけるために、栄養をとらなくちゃあと、穴原の内藤よしえさんたちが工夫して、みんなで大豆で豆腐をつくって分け合う『お豆腐の日』を始めたんです。そして、若妻会で食生活改善講習会などをよくやりました。そしたら昭和32年に保健所の『栄養改善指定村』を受けることになって、これが栄養グループに発展したんです」と、栄養グループ誕生のいきさつを語ってくれた。
 さらに、佐口の衛生指導員だった井出佐千雄さんも、「そう、俺たちのところにも、栄養グループの篠原てる子さんたちが指導に来てくれていたが、赤痢にならないために栄養が大事だと、環境衛生指導員だった俺たちも、頑張ってPRしたんだ」という。
 なんとこの栄養グループも、赤痢が発端で始まった住民の活動が原点にあったのだ。

ナベ・カマ持参で伝達講習
 役場の間島誠さんや井出保健婦さんも力を入れ、栄養改善の指定村として取り組むための組織がつくられる。各地区の婦人会から、2〜3人ずつの代表が選ばれ、50人からなる栄養グループができあがった。

献立表をみながらの実習のはじまり
 毎月1回保健所の栄養士による調理講習などが行われ、ここで習った知識や料理法を、各人が持ち帰り、地区ごとに伝達講習をしてまわる。公民館に鍋・釜を持参で苦労もいとわずがんばった。
 グループの中心的な牽引役だった横森幸子さんは、「村ぐるみの健康管理25年・栄養グループの思い出」(昭和60年3月発行)のなかで、「会員1人あたりの材料費30円で、各自が負担するところや、婦人会で負担してくれるところといろいろでしたが、みんな比較的暇はあったので、伝達講習の連絡を出すと、公民館の調理室いっぱい、にぎやかによく集まってくれた。現代のようにまだプロパンガスという、ハイカラなものもなく、コンロと炭、鍋、まな板、包丁と、材料からすべて籠に入れて背負い、伝達会場に出向いたものだった。料理も終わって試食会の後は、みんなで楽しく歌ったり踊ったり、今考えるとずいぶんのんびりしたもので・・・」と記している。
 実際、子ども連れで集まるのだから、ワイワイがやがや賑やかで、できたそばから子どもが食べたがり、大人の分をまた作ったりして楽しかった、マヨネーズの作り方もよくやったと、今でも懐かしく語るグループ員が多い。
 そしてついに、昭和37年の全国栄養法施行10周年記念大会で、八千穂村栄養グループが厚生大臣賞をいただくことになる。
 食糧難のなか、畑からとれる手近かで栄養価の高い大豆を使ったこと、協同で自家用豆腐を定期的につくって分け合うこと、冬にはこれを凍み豆腐にして、1戸に5箱ずつ作り、農繁期の保存食にまで利用したことなどの、すばらしい実践が注目されたのである。


山羊を飼うのは男の役目

「信州むらの50年」(信濃毎日新聞社)より
 その後、代表12名の研究グループもでき、年間の活動計画やテキスト作成、栄養実態調査もやっている。栄養調査は無作為抽出の30戸について、みんなで1週間の調査をして歩く。その結果は野菜とタンパク質不足・塩分過多がはっきりした。
 そこでグループは、豆腐だけでなく動物性のものもと、全戸に山羊の飼育を推進する。
 濃厚飼料を必要とせず、草だけで栄養価の高い乳を出す山羊は、当時大いに注目されだしていた。
 我が国唯一の山羊牧場(現在長野種畜牧場)が近くにあり、山羊を飼うのは村の条例にしたほどで、どこの家も毎日の草取りは子どもの仕事、管理は男の役だった。この山羊乳が乳幼児の栄養をかなりカバーしたと思われる。


自家用に鶏5羽運動
 さらに、売るだけの養鶏ではなく自家用に卵を食べようと、鶏5羽運動を提案する。村中でやるところに意味があり、これで多少は卵が人々の口に入ったらしい。鶏については今でも思い出すことがある。昭和36年の夏、私どもが全戸訪問を計画して、下畑を回っていた時のこと。
 カンカンと石をたたくような、かん高い音がするので行ってみると、真っ赤な血が石から滴たっていて、おじさんが何かをしきりにたたいている。手でもケガしたのかと驚いて聞くと、「鶏をつぶしたから、骨をたたいて団子にしているんだ」という。盆に客が来るからとのこと。
 庭の石にじかに肉片を置いて、金槌でたたいているその大らかさ。初めて見る光景のすごさに驚きつつも、非農家だったわが家の暮らしにはない、豊かな行事食で、農村のたくましさを感じ、印象深い思い出として残っていたのだが、あれが鶏5羽運動だったのかと、ずっと後になって思い当たった。


健康管理を支えた底力
 村ぐるみの健康管理活動は昭和34年から始まったのだが、これよりずっと早い段階から、住民自ら健康づくりを考え、村民全体を視野に入れた活動が始まっていたのだった。環境衛生指導員と栄養グループの組織が、健康をまもる牽引車の両輪となって、道を切り開いていったといえる。
(かんとりい・とりお)

 この連載は、健管OBの松島松翠、横山孝子、飯嶋郁夫さん三人の共同執筆によるものです。“かんとりい・とりお”(country trio)とは「田舎の三人組」との意味。