〜「農民とともに」No.88〜



八千穂村健康管理
ハエ退治が第一の仕事
 赤痢大発生が契機となって、昭和34年に、8人の専任の環境衛生指導員が選ばれた。大半が20歳代の青年たちだった。
 といっても役場の常勤職員ではない。ふだんはそれぞれ自分の仕事を持っていて、ある人は農業に、ある人は自営業に、ある人は会社勤めに精出している。時期に応じて環境衛生の仕事を、それぞれ分担の地区を受け持って行うのである。
 環境衛生指導員の第一の仕事は、伝染病予防のために、まずハエを駆除することであった。ハエの多いところはまず便所である。便所は外便所で今と違って「溜め」の周りはコンクリートでなく土だから、そこにハエが卵を産んでサナギができる。放っておくとそれからウジが生まれる。春早いうちに冬眠中のサナギを土ごとかき取って、新しい土と入れ替えるのである。
 もちろん指導員だけでは、とても全戸はできないので、地区の衛生部長さんや個人ごとに指導して実施してもらう。そのあとへオルソ剤(有機塩素剤)という殺虫剤を一戸一戸散布して歩くのが指導員の役目だった。


ハエの習性も利用して

住居と隣り合わせの牛小屋
 牛小屋もハエの多いところだった。指導員の井出守さんは、ハエ退治の変わったやり方を考えた。牛小屋の入り口に縄のれんを張り、のれんに殺虫剤を撒くというやり方である。ハエは低いところは飛ばない。高いところを飛ぶので、のれんに1回とまってから牛小屋へ入る。出てくるときもそこへとまってから出てくる。そういうハエの習性も利用した。
 もちろん牛が出入りするときは、殺虫剤のついたのれんをくぐるので背中に薬剤が付く。そこで背中にハエがとまると死ぬ。しかし人間が触るとあぶない。牛小屋の出入りには注意が必要だった。
 もう一つ、薬剤を使わないハエ退治の面白い方法があった。ご飯を炊いておかまを置く。そこへワッとハエが集まって真っ黒になる。そこで麦藁に火をつけてパッと被せる。ハエは一斉に焼けて死んでしまうというのだ。
 ノミ退治には床下消毒をやった。これは主に粉剤でDDTを撒いたという。器械でものすごい勢いで噴出するので、下手をすると体じゅう浴びてしまう。殺虫剤散布もなかなか危険な作業だった。


日頃の実践結果を発表
 環境衛生指導員が消毒に力を入れたお蔭で、その後赤痢の大発生はなくなったが、他の伝染病も含めて散発的に一年に数件程度の発生はあった。その度ごとに指導員は呼び出されて、患者の家はもちろん近所周辺まで、消毒を繰り返して歩くのだった。
 年齢が若かったこともあって、指導員たちは研究熱心だった。毎年、県の主催で環境衛生大会というのが長野や松本で開かれたが、それには全員で参加し勉強した。その佐久地区の研究発表会が海ノ口の和泉館で開かれたときに、井出守さんが研究発表を行った。テーマは「便所のハエの駆除について」である。
 日頃実践していることを発表すればよいので、それは難しいことではなかったが、会場からは質問が相次いだ。どんな消毒方法でやっているのか、散布器具はどこのメーカーのものか、どこで買ったか、値段はいくらかなど、具体的な質問が多かった。他の地区では、あまりそういうことはやっていなかったらしい。大会へ出てみると、八千穂村が相当進んでいることが分かった。


回虫が鼻からニュ〜ッと

下肥を溜めておく野溜
 ハエの駆除とともに、環境衛生指導員が力を入れたもう一つの仕事は、回虫の駆除であった。検便の手伝いと、駆虫剤を配って歩くことである。
 当時は回虫卵保有者は村平均で50%を越していた。時々回虫を口から吐き出すことは珍しくなかったが、たまには回虫が鼻からニューッと出てきて皆をびっくりさせた。腹痛で病院に入院し、手術を受けて、初めて原因が回虫によるものだと分かった人もいる。
 回虫が多かったのは、下肥を直接畑へ撒いたからである。家族の誰かが回虫を持っていれば、下肥には必ず回虫卵が含まれる。それを肥桶で汲みだしてそのまま畑へ撒くものだから、当然野菜にその仔虫がついてしまう。その野菜を食べてまた感染する。悪循環だった。
 寄生虫には回虫だけでなく鈎虫・十二指腸虫)も多かった。村平均で数%もあった。これはひどい貧血を起こすので、病院での治療が必要だった。


マッチ箱に便を詰めて
 そこで寄生虫の検査が始まったのだが、検査は上田の寄生虫検査所に頼んだ。まだ全村健康管理が始まる前のことである。
 検便には、マッチ箱を利用して便を提出してもらった。それを集めるのも指導員の仕事だった。ところが村の人は便をたくさん取ってくる。マッチ箱一杯に詰めてくる人もいる。だから便の匂いが部屋中に広がって臭くて大変だったという。
 回虫の駆虫には海仁草(マクニン)を主に使用した。薬は役場で用意して保有者にはただで与えたから、村の人は大人も子どもも進んで便を提出した。
 環境衛生指導員は保健婦と協力して、各地区を回って回虫予防の映画をやりながら、検便や駆虫剤投与を精力的に行った。そのとき下肥を生のまま撒かずに野溜をつくって熟してから撒けという指導もした。しかし野溜をつくったのは大きな農家だけで、一般の農家はとてもそんな余裕はなかった。みな貧しい時代だった。
(かんとりい・とりお)

 この連載は、健管OBの松島松翠、横山孝子、飯嶋郁夫さん三人の共同執筆によるものです。“かんとりい・とりお”(country trio)とは「田舎の三人組」との意味。