〜「農民とともに」No.107〜




八千穂村健康管理

村医の出浦医師が村長に
 昭和50年、今までの佐々木庫三村長に替わって、ずっと村医として診療されていた出浦公正医師が村長に就任された。もちろん村の健康管理の方向には変りはない。出浦医師自身が開業医として、健康管理を支えてきた1人だったからである。
 だが、出浦医師が70才という高齢で村長職におされて、「経験のない行政の仕事を始めたのだから、その苦労は大変だったはず」というのは、その時住民課長補佐をしていた岩波英雄さん。「村の病人たちが、主治医が村長になって診療してもらえなくなって困るというので、出浦村長は出勤する前の朝と、退庁後に診療したりして、頼ってくる人の面倒を見ていた。真面目でうそも言えない性格だったから、診療と政治の間で大変苦労された」と語る。
 衛生指導員たちも、八千穂村が無医村になっては困ると大いに心配した。公民館の脇に診察室を作ったらどうか、佐久病院から医師を回してもらったらなどと気をもんだが、実際大過なく過ごせたのは村長の努力に負う点が多い。

衛生指導員も世代交代
 昭和50年前後から、衛生指導員のほうも世代交代が始まっていた。
 今まで衛生指導員には任期がなく、トラさんの16年、井出左千雄さんの20年など、長く務める人が多かった。これでは若い人が育たないというので、1期4年の任期を決めた。だが、ちょうど慣れてきた頃に辞めてしまうのはまずいということで、最低2期はやることを皆で申し合わせた。
 衛生指導員会長は小宮山則男さんに替わった。新しくなった指導員たちも従来と同じような悩みを抱えていた。天神町担当になった青木秀夫指導員の悩みは、この集落が、出浦医師が開業されているお膝元で、病気になればそばに出浦医師がいるから、すぐ治してくれるので、検診なんか受けなくていいという村民が多く、受診率が最低に近い状況だったことだ。
 青木さんは、「何しろ必死で、一軒一軒回って検診の必要性を説得して歩き、40%から80%にまで受診率を上げることが出来て、ほっとしたものだった。佐久病院の笠置保健婦さんが協力して、励ましてくれたのも有難かった」と語っている。

喜ばれた地域リハビリ

福祉センターでリハビリ訓練が始まった
 健康管理活動の効果の1つに脳卒中発症が減り、若くして倒れる人が減ったことである。
 そこで佐久病院磯村医師が中心となり、昭和47年から佐久地域では、脳卒中発症の早期に適切な治療とリハビリで、寝たきりや死亡を減らそうという、脳卒中登録システムが始まっていた。
 この中で先進的な立場にある八千穂村では、「せっかく脳卒中から救われて家に帰った人が、自宅ではなかなか訓練を続けにくく、マヒが進んだり寝たきりになることがある」という悩みが、保健婦の井出今さんや衛生指導員会で話題になっていた。
 そしてついに昭和50年、村の福祉センターの一室をリハビリ訓練用に改造して、毎週2回の地域リハビリが始まった。佐久病院から理学療法士が出かけ、村の保健婦がまとめ役となって、定期訓練と健康相談が継続された。
 小宮山則男さんは「これは家族から本当に喜ばれた。家族が言っても訓練しないけど、あそこに行けば仲間がいて、熱心に訓練したり、お茶のみの交流で人と話もするようになって、何しろ明るくなったって喜んでいたよ」と情報を寄せてくれた。好評なこのしくみに、やがて本人が訓練室に通うタクシー代の半額が、村から援助されることに発展した。
 さらにこれにならって佐久地域の町村も、訪問入浴サービスや訪問リハビリなど、いろいろ工夫が始まった。これはやがて制定される老人保健法や、さらに現在の介護保険制度のモデルになる取り組みであった。昭和50年代のはじめにこれが展開されていたことは画期的なことだったといえよう。

全県の健診に追われる
 八千穂村の健康管理がもとになって始まった、全県集団スクリーニングの実施にあたって、佐久病院の健康管理部は県厚生連の健康管理センターを兼務することとなり、県内各地をフル回転で健診に追われるようになった。
 スタッフも今までのように八千穂村だけに係わっていられなくなったし、新たに加わったセンターのスタッフは、「八千穂村に追いつき追い越せ」とはり切って南信や中信地域に力を入れる。
 しかし大事な衛生指導員勉強会は手を抜くわけにはいかない。「勉強会に日程を合わせるのがやっとで、この頃が一番辛かった」と横山保健婦は語る。

学童の健康管理も充実

学童検診中の神辺医師
 指導員会で「大人の健診はヘルスになって内容が充実したが、子供のことがおろそかだ」という話題が出たことから、学童の健康管理の見直しも始まった。子供の肥満や貧血などがニュースになり出していたこともあった。小中学校の養護の先生や教育委員会も加わって、小児科の神辺医師と協議し、貧血や脂質、血糖などの血液検査を入れ、ほぼ大人並みの内容の学童検診が実施されることになった。昭和53年度からで、学童健康手帳や健康台帳までつくられた。
 栄養のあるものを何とかとって欲しいと願った頃を通り越して、いつのまにか肉や油をとりすぎる時代が来ていた。そして、八千穂村にも朝食を食べない子など、生活リズムの乱れも始まっていた。健診結果では学童にも高コレステロール児が中学生で9%もあり、成人病の予備軍が始まっていることが分かった。
 子供も含めて、生まれてから死ぬまでの健康管理、八千穂村の新たな取り組みがここに始まった。
(かんとりい・とりお)

 この連載は、健管OBの松島松翠、横山孝子、飯嶋郁夫さん三人の共同執筆によるものです。“かんとりい・とりお”(country trio)とは「田舎の三人組」との意味。