〜「農民とともに」No.87〜



八千穂村健康管理
赤痢が222人発生
  畑八村と穂積村が合併して八千穂村になったのは、昭和31年のことだが、その少し前、昭和28年に穂積村で赤痢が集団発生した。患者はあわせて222人に達したが、この大発生は県下第一ということで、村中大騒ぎになった。
 発生源は穂積小学校で、患者の大部分は児童だった。そのうち児童から家庭へと広がり、ついには穂積村全村にまで及んでしまった。保菌していた子供が学校で相撲をとって遊んだだけで、村中に移ってしまったという噂があったが、原因は学校の水からの感染だったようだ。
 学校に簡易水道は入っていたが、断水に次ぐ断水で十分消毒できない状況であった。これが、小中学校の児童、生徒に多くの患者が出た原因とされた。学校給食はまだやっていなかったから食べ物からではない。各地区の発生は生徒の媒介によるものとされた。


お尻だけ出して一列に


高岩隔離病棟に収容された学童たち
(穂積公民報昭和30年8月20日号より)
 早速、保健所が来て全村検便と消毒を行うことになった。役場の担当はもちろん、地区の衛生委員(後の衛生部長)も呼び出されて手伝うことになった。しかし、衛生委員自身も赤痢にかかった人も多く、なかなか手がなくて困ったという。
 保健所は泊まりがけで夜を徹して検査した。後に衛生指導員になった佐々木喜一郎さんは、当時衛生委員をしていたが、早速呼び出されて検便を手伝った。みなお寺に集まってもらって、便をとって菌の培養検査をするのだが、そのやり方がいっぷう変わっていた。一列に並んでカーテンからお尻だけ出して並び、検査者がガラス棒をお尻の穴へ突っ込んで便を採取し、シャーレに塗るのである。番号で処理し、カーテンで区切られているので、顔も名前も分からないが、今だったら人権問題になるかもしれない。
 全村に赤痢が発生したということもあって、保健所の命令も強制的だった。とても恥ずかしいなどと言っておれなかった。役場も赤痢発生にびっくりして、当時の衛生主任の間島誠さんや、学校を卒業して就職したばかりの井出今保健婦さんも、殆ど毎晩幻灯機を持って地区を巡回し、伝染病予防の話をして回った。

衛生知識の不足が原因
 各町村には「避病舎」という名前の、いわば隔離病舎が設けられていたが、穂積村では高岩地区にあった。患者は順次その避病舎に収容されたが、たちまちのうちにいっぱいになり、ついには病棟の廊下にまであふれ出る始末であった。そこで、3〜4カ所の公民館にも分けて患者を収容した。
 その後、患者は千曲川をはさんで、畑八村へも移り、昭和29年には上畑地区で24人、30年にはまた穂積村で118人の発生があった。
 相次ぐ赤痢の発生に、当時の野沢保健所の防疫係は、後になって次のように記している。
 「もう少し公衆衛生に対する知識があったら、こんなことにはならなかった。防疫のために我々が現地へ行って見てみると、村から川の水は使わないようにといくら言われても、平気で使っているし、手洗いは、造っておかなければ文句を言われるからと、申し訳的に造っておき、実際は殆ど使用した様子はなかった。
 いちばん驚いたことは、高岩地区で、夕食用のそうめんをゆでて、川で冷やしていたお婆さんがいたことで、これにはいささかあきれた。(後略)」(穂積公民報・30年8月20日号)
 基本的には、村民の衛生知識の不足が原因とされた。


次々と簡易水道を建設
 このような状況の中で、昭和31年、穂積村と畑八村とは合併し八千穂村が発足した。井出幸吉氏を村長に新しい第一歩を踏み出したのである。
 八千穂村にとって、この赤痢大発生は大事件だった。その教訓を生かして二つのことがなされた。
 一つは簡易水道の建設だった。それ以前にも八郡地区や筆岩地区にはすでに出来ていたが、赤痢発生を機会に各地区で次々と簡易水道がつくられた。従来は申し訳的な消毒装置が多かったが、維持管理を完全にという保健所の指示で、その点にも力が入れられた。
 これがやがて、佐久地区全体に上水を供給する佐久水道建設(昭和35年竣工)へと発展していくことになる。

環境衛生指導員を置く
 もう一つは、昭和34年になって環境衛生指導員というものを県環境衛生連合会の指示で人口1000人に1人置くことになったことである。これは八千穂村だけではなく各町村でも同じだった。八千穂村では人口は6000人程度だったが8人置くことにした。それだけ力を入れたのである。
 他の町村では環境衛生指導員をおくことには、あまり乗り気でなかった。区長が兼ねてやるとか、名目だけのものが多かった。しかし八千穂村では違った。赤痢発生の経験で、みな地域の衛生環境を良くし、伝染病の予防に力を入れなければという気持ちが強くなっていた。
 結局、専任の環境衛生指導員をおいて積極的に取り組んだのは八千穂村だけだった。赤痢大発生が村の意識を大きく変えた。後に彼らは環境衛生面だけでなく、成人病予防も担当する衛生指導員として、全村健康管理発足の際には大いに活躍することになるのだが、赤痢発生がその土台をつくったといえる。 まさに赤痢さまさまであった。
(かんとりい・とりお)

 この連載は、健管OBの松島松翠、横山孝子、飯嶋郁夫さん三人の共同執筆によるものです。“かんとりい・とりお”(country trio)とは「田舎の三人組」との意味。