健康な人でも、季節の変わり目は体の調子を崩しやすい。というのも、日によって、時には1日の中でも寒暖の差が激しい季節は、体が追いついていけないのである。適応力や柔軟性に富んでいる若者は乗り切れてしまうが、特に病気で弱い部分があると、その隙間に入り込んでくる。
 やちほの家のお年寄りは、低気圧が近づいてくると、前の日あたりから「今日はおぼさんのあんばいが悪い」とか、大概右の不随麻痺の方が「こっちの(麻痺側)手に痛みが出て、動きが悪くなるだよ」とか「何だかあんばいが悪い、すっきりしねぇ」と言っては、見事に翌日の天気を当ててしまう。どうも、気圧が低いと水を呼ぶというか、痛めている箇所に体内の水が滞るようにさえ思える。そんな時は、お年寄りたちの体の正直さと、自然科学的に自分の体の弱さを自覚して、日常生活活動を調整している姿に、長年の健康管理活動の足跡が、健康管理意識として根付いていることにほっとする。
 しかし、重度の認知症の場合は、自分の心身の状況を認識し、行動の調整を図る能力は失われ(失認・失行)、心の表現である言葉と体の異常が別もののように食い違っていく。「血圧が高いから塩気の物は控えてね」と言って「はいよ」と同意をもらっても、目の前に漬け物があれば、無くなるまで食べ尽す。「良く噛みましょう」と、口の中に頬張って食べている行動を抑制したら、その手を払われるか、スプーンを投げ手で食べ始める。そしてお皿を指でなめ回し、最後は入れ歯をはずしてなめ始める。更に周りが食事中でも、「いつまで食べているだい」とお盆を探して歩き回り、自分の目の中に見えているお皿だけをかき集めて片づける。大騒ぎしながらの行動は、振り回されやすい別の認知症者を巻き込んでいく。机には、まだ皿やお椀が残されているが、それは全く目に入っていない。
 「胃袋のためにゆっくり食べて」とか「入れ歯の汚れはしっかり取らないとばい菌が増える」とか「立ったり座ったりは膝に良くない」とか、言い聞かせは認知症の行動にアクセルを駆けていく。すでに胃や膝の病気のことなぞ、その瞬間は本人にとって意味ないもので、すでに思い込んだ行動に支配され、両眼を司る筋肉は緊張し、目は殺気付いている。
 このような「修正不可能」な場面が、春と秋の季節の変わり目には不思議と多くなる。地域ではよく「草ぼき・草枯れの時期」と言っているが、本人の認知症の悪化や自分たちのケアの未熟さへ原因を転嫁させるより、時には「草枯れの時期」に転嫁させることで、自分たちが救われていることも少なくない。
 職員の夢の中に訪れるお年寄りたちは、めっきり寒くなった頃には、穏やかな顔で「またお願い」と言ってくれるかな。