〜「農民とともに」No.128〜



八千穂村健康管理

同じブロックの同級生
 農村では同じ名字の人が多い。とくに山の中へ行くほどそれが多くなる。八千穂村でいえば、最も多いのが佐々木で、次いで井出、篠原、須田、渡辺、小宮山などの姓が多くを占める。だから呼ぶときは姓で呼ばず、みな名前で呼ぶ。とくに親しい場合は、「さん」までも省く。衛生指導員の「茂松!」「恒人!」と言えば村の人ならすぐ分かる。正しく言うと、小林茂松さん、内藤恒人さんだが、以前に聞いたことのある名前だと言われる方はかなり記憶力がよい。お酒を墓場の土の中へ埋めて実験したという、例の霊園コンビである。2人とも平成5年に衛生指導員になった。しかも同じ地区ブロックの担当である。このコンビが、後に指導員の会長と副会長をやるようになるのだが、その活躍たるやなかなかユニークだった。2人とも大の酒好きだが、単に酒好きだからということだけじゃない。

いつのまにか友達にする
  茂松さんは、変わった能力の持ち主だ。話好きで唾を飛ばして大声で喋るのだが、話しているうちに皆をいつのまにか友達にしてしまうのである。理屈は全然言わない。それでいてみんなを「じゃあ、やろう!」という気持にさせるのがうまい。

討議の結果を発表する茂松さん
 また茂松さんは、人の悪口は絶対言わない、うそはつかない、裏表がない、打算がない、言ったことは必ず実行するという人である。どこかの国の政治家に聞かせたいようなことだが、それで皆から好かれた。
 頼まれたことは一度もいやとは言わないから、衛生指導員の演劇では、大体主役をやることが多かった。会社の仕事は3交代で夜勤も多く不規則。「今日は練習が終わったら、夜勤に行かなくちゃいけねえ」と言いながら劇に熱心に参加していた。唯一の欠点は台詞の覚えが悪いことだ。だから演出の高見沢さんにはしょっちゅう怒鳴られっ放し。それでもしょげた様子もなく、ハイハイと懸命に演じていた。
 指導員会の会長になったときは、皆からケチョンケチョンにやられることも多かった。「こんなにケチョンケチョンにやられる会長なんて見たことない」と、後に保健衛生係長になった佐々木勝さんは言う。纏めようとしなくても、最後は自然と纏まってしまうのだ。佐々木さんは、「住民組織の中で、上に立つ人っていうのは、こういう人かな」と思ったそうだ。アクが強くなくて、押しつけもなくて、皆をその気にさせてくれる人ということなのだろう。


相手が気付くまで声かけ
  茂松さんは、痴呆の母親の面倒をよく見ていた。母親は茂松さんを自分の夫と思っていて、オムツを代えるのは、嫁には許さず、茂松さんにしかやらせなかったらしい。したがって茂松さんは、勤めながら毎日オムツ交換をしていたし、デイサービスへ行くようになってから、毎日その送り迎えもした。勤めながらの介護はとてもつらかったと思うが、その大変なことをおくびにも出さなかった。
 茂松さんはまた、物覚えがよくて、人の名前と顔はすぐ覚えてしまう。だからいつか交通事故を起こすんではないかと皆が心配している。というのは、車を運転していて誰か知っている人が道端を歩いているのを見つけると、窓を開けて「オーイ」と声をかけるのである。相手が気付くまで窓から首を出しながら、声かけをやめないものだから、いつかガチャーンとやるのではないかということなのだ。そんな天衣無縫なところが茂松さんにある。

意見は厳しいが発想豊か
 この茂松さんを支えたのが、副会長になった恒人さんである。

右から吉沢さん、茂松さん、恒人さん
 茂松さんは大まかで、どちらかというとムードメーカーだが、恒人さんはざっくばらんに思ったことをスパッと言うタイプ。時には厳しい意見も言うが、発想豊かでブロック会議でもいろいろなアイディアを出してくれる。「おらどうしていいか分かんねえよ」と茂松さんが時々弱音を洩らすこともあったが、「そりゃ、こうすりゃいい」といつも蔭から助けていたのが恒人さんだった。年は茂松さんのほうが上だが、茂松さんはたえず恒人さんを頼りにしていた。
 恒人さんは自営業の電気会社をやっていて忙しかったから、ブロック会議には作業着のまま駆けつけることも多かった。演劇のときはいつも裏方で、持ち前の技術を生かして音響係を担当した。CDを借りてきて、BGMをつくるのは得意だった。
 全く性格は異なる2人であるが、良いコンビであったといえよう。

役場もよく手助けした
 このコンビにもう1人、会計担当として吉沢憲一さんが加わり、3人で指導員会の三役を受け持つことになった。憲一さんは若いけど、吉沢電設の社長さんである。茂松・恒人コンビほど目立たないが、社長だけあってしっかりしている。2人と地域ブロックは違うが、学習会活動はマメであった。この三役が中心となって、指導員活動はさらに拡がっていった。
 これには役場の強力な支援があったことは言うまでもない。課長さんや係長さんもよく手助けしてくれた。住民課長の佐々木徳治さんは親分かたぎで、面倒見がよかった。これはよいと思えば、とことんまでやってくれた。その後任の飯塚豊課長さんも、指導員活動を随分と支えた。指導員が交代で長野県農村医学会に研究発表するようになると、毎年役場のマイクロバスを仕立ててくれた。
 役場と衛生指導員との間には、今までよりもずっと親密な関係が生まれつつあった。これを切り開いたのは、やはり茂松・恒人コンビと会計の吉沢さんだったといえようか。
(かんとりい・とりお)

 この連載は、健管OBの松島松翠、横山孝子、飯嶋郁夫さん三人の共同執筆によるものです。“かんとりい・とりお”(country trio)とは「田舎の三人組」との意味。