〜「農民とともに」No.125〜



八千穂村健康管理
地区ブロック会をつくる
 衛生指導員たちは、ときには各市町村の保健補導員や保健推進員たちの集まりに出席することもあり、ともに学び、ともに討論する中で、女性たちといっしょに保健活動をすすめることの必要性を感じていた。
 だが八千穂村の健康管理はというと、健診の受診勧誘とか希望者の取りまとめなど実際的な仕事はすべて女性の健康づくり推進員の手に移っていて、指導員の活動は宙に浮いてしまっている。一方、新しい指導員規約の中では、衛生指導員は健康管理の中でリーダーシップをとることと書かれてある。どうリーダーシップをとったらよいのかが課題だった。
 昭和63年に新しく衛生係になった須田秀俊さんも、そのことで悩んでいた。役場の中では、同じ仕事をする組織が2つもあっては無駄だから、一本化してはどうかという意見が多くある。何とかして地域の中で衛生指導員がリーダーシップを発揮できる場をつくらなければいけない。それには衛生指導員を「親方」にすることだ、責任を持ってやってもらう場をつくることだと須田さんは考えた。そこでできたのが「地区ブロック会」である。

衛生指導員を主役に

地区ブロック会にて
 まず14人の衛生指導員の担当地区を中心に、全村を14のブロックに分ける。それにブロックから出ている42名の女性の推進員をそれぞれ2〜5名ずつ割り当てる。各ブロックの指導員をリーダーにして、地区ごとに活動するというものである。
 衛生指導員は演劇活動は盛んにやっていて、これも大きな地域活動の場であった。だが、積極的に参加している人たちはよいが、そうでない人は自分の活動の場がない。演劇の主役からはずれた人は、いつのまにか地域活動からも遠のいてしまう。今度は1人ひとりを主役にするというのである。
 一方、婦人の健康づくり推進員も、ただ役場の下請け仕事だけでは面白くない。仕事量はかなり多く、中にはとてもできないから辞めたいという人も出ている。逆にもっと学習したいという声も大きい。衛生指導員と一緒にやることは願ってもないことだ。「地区ブロック会」は、その2つの組織を上手く組み合わせた地域活動のしくみであった。

自分たちの好きなテーマで
 平成元年からブロック会が始まる。ブロックごとにやる活動は、同じ地区なので集まりやすい。その上3人の保健婦が各ブロックを分担して指導や相談に当たった。さらに会議には、役場の衛生係と病院の健康管理部も参加する。
 いちばん喜んだのは女性の推進員だった。経験の深い衛生指導員が、ああだこうだといろいろ教えてくれる。受診勧誘のとき、あの家はこういうふうにやったほうが上手くいくよとアドバイスしてくれる。それに合同の学習会や視察研修旅行もある。
 松川町の「健康を考える会」の発表会にも、交代で2回も見学した。今までも何回か見学しているが、このグループでは初めて。これがブロック会の活動を根本的に変えるきっかけになった。
 見学に参加したある指導員は、「今まで衛生指導員として活動していたけど、どうしても役場と病院におんぶに抱っこの面が多かった。松川町を見て、住民のグループが自分たちでテーマを考え、研究し、発表しているのにはびっくりした」と語る。
 衛生係の須田さんは、「このやり方だ!」と思った。1年間かけて自分たちの好きなテーマで研究や調査をする。そしてその結果を発表する場をつくる。1年でできないことは何年でも継続してやる。このやり方を八千穂村でもやろうと企画したのであった。

必ず新しい発見がある
 衛生指導員の中には、「こういう調査や研究などは、すでに医者がやっている。今さら我々がやることはないではないか」という声もあった。しかし、須田さんは、「自分の目で確かめてみると、必ず新しい発見がある。自分たちが取り組むことが大事なのだ」と説得した。
 この新しい取り組みは平成3年度から始められた。そして取り組んだ結果は、必ず毎年の「健康まつり」で発表することにした。そこで各ブロックごとに衛生指導員、女性の健康づくり推進員、衛生部長さんたちが集まって、まずテーマを検討することから始めた。

時代とともに‥
 「基本的には自分たちの好きなことをやってよい」ということであったが、こんなことは初めてなのでみな慣れていない。いざ選ぶとなるとなかなかテーマが決まらず、どこでも苦労したようだ。

親の愛情に思わずホロリ
 上畑宮前地区ブロックでは、渡辺憲太郎さんを中心に、「昔と今の弁当の移り変わり」というテーマでやることにした。作り手と食べ手のつながりと時代の変化が、弁当の中に映し出されることに気づいたからであった。
 弁当箱も各家庭にある古い弁当箱を探してもらい、それぞれに当時の献立をつくってそれに盛って供覧した。30年昔のアルミの弁当はいつも梅干しを同じ場所に入れるため、その部分が腐食して穴が開いているものが多かった。
 おかずの内容をみると、卵焼きと魚は常に使われたが、その他では、昭和30年代はでんぷ、煮物、切りイカ、漬物、40年代になるとウインナーソーセージやとりのから揚げ、エビフライなどの冷凍食品が目立つようになる。50年代は漬物に代わってレタス、ミニトマトが主になった。
 弁当の移り変わりは「おかず」の移り変わりである。たった1つの弁当にも、その時代の食生活の姿が見える。ただ弁当は当時の食事にくらべて一般に豪華で、親のこまやかな愛情が伺われ、皆思わずホロリとしたという。(かんとりい・とりお)

 この連載は、健管OBの松島松翠、横山孝子、飯嶋郁夫さん三人の共同執筆によるものです。“かんとりい・とりお”(country trio)とは「田舎の三人組」との意味。