〜「農民とともに」No.123〜




八千穂村健康管理
学習の場が欲しい
 前にも述べたように、4年間の任期を終えて、平成元年から衛生指導員13人のうち10人が交代した。高見沢佳秀さんはもう一期続けることにしたが、会長は指導員3期目の渡辺憲太郎さんがやることになった。渡辺さんは、前記の小冊子の中で、「衛生指導員の大事な仕事は村民との対話と教育だと思う。それには、保健、衛生、医療面での学習会も1月に1回は持たないと無理である」と、学習会の大切さを訴えている。
 衛生指導員会は、従来から佐久病院の協力を得て、月1回の学習会をやっていたのだが、激動の4年間の中でその開催も滞りがちになっていた。指導員OBからも、指導員を辞めていちばんさびしいことは、学習会に出られなくなることだ、何とかOBも含めて皆が出れるような学習の場が欲しいという声も出ていた。

保健大学に目が覚める

指導員を中心にセミナー1期生
 それより少し前、昭和62年に小諸厚生病院で行われた保健担当者の意見交換会に出た健康管理部課長代理(当時)の飯島郁夫さんは、思わぬ話を聞いて目が覚める思いがした。
 小諸では、健康管理課長(当時)だった依田発夫さんらが中心となり、すでに昭和58年から「実践保健大学」という講座を始めており、その卒業生たちが町村単位でデイサービス施設をつくる住民運動の中心となって活動していることを知ったのだった。
 興奮した飯島さんは病院に飛んで帰り、保健婦の小林栄子さんや中沢あけみさんたち、職場の何人かに呼びかけた。「俺たちもやろう。住民参加の健康管理を実現するには、まず住民のリーダーづくりからやればいいんじゃないか。よくよく考えてみれば、佐久病院には八千穂村の衛生指導員という立派なモデルをつくった歴史がある。それを佐久地域に広げようではないか」と。
 実は地域の保健活動家を養成するための保健大学を初めてつくったのは、群馬県の利根医療生協の「生協保健大学」であった。こちらは昭和49年から開かれており、多くの卒業生が活動している。後になって、利根医療生協の木村朝次郎専務さんから「モデルは八千穂村の衛生指導員にあったのですよ」と言われて飯島さんは驚い
た。「やっぱり八千穂村が原点だったんだ」と。

指導員が中心になって
 早速、健康管理部の主任者会議で、飯島さんはこのことを提案した。みな一も二もなく賛成であった。ただ上手くいくかどうかも分からないのに、名前だけ「大学」とつけてもどうなのかという意見もあって、当面は「地域保健セミナー」ということで始めようということになった。
 飯島さんは、指導員の高見沢さんにこの話を持ちかけた。この実施には衛生指導員が中心となって活躍してほしいと考えていたからである。高見沢さんも「指導員会で月1回行っている学習会を、佐久地域の人たちといっしょにやって、いろいろな意見を聞いてみたい」と大賛成であった。そして衛生指導員たちやそのOBの中に賛同者を拡げていった。
 早速カリキュラムづくりが始まる。小林保健婦さんは、休みの日を利用してひそかに東京通いを始めた。関係しそうな講座を探し、自費で片端から受講していった。
 小林さんはこう述懐する。「保健婦仲間で、いろいろ向上したいと議論が多い中で、何をやっていいか分からないモヤモヤした気分を持っていて、苦しい時だった。このセミナーの取組みは、自分にとっても救いになった」と。

カリキュラムはできたが
 カリキュラムづくりといっても暗中模索である。担当者を決め、農村保健研修センターへ泊まり込みで案を練った。単なる医学講座ではなく、リーダーとして地域で活動するための理念と実践方法も取り入れた。また一方的な講義ではなく、グループワーク、実習をできるだけ取り入れ、また演劇上演は必ず入れることを決めた。
 漸くカリキュラム案ができ、飯島さんは勇んで、企画案を持って若月院長(当時)に病院として実施の許可を願いに行った。ところが若月院長から、「今の君たちにそんなことができるのかね」と一喝されてしまった。自ら検診屋と批判した健康管理部の若造たちが考えたことを、若月院長はまだ信用していなかったのだ。

思わず全身が震えた
 困った飯島さんは、高見沢さんに訳を話す。ちょうど八千穂村と佐久病院の合同会議が開かれていて高見沢さんも出席していた。高見沢さんはセミナーに期待を持っていたので、「よし、住民の立場から話してみよう」と、休憩時に若月院長をつかまえ話かけた。

1期生の研修風景
 「俺たちも佐久の他の地区の人たちと、指導員会でやっているような学習をいっしょにやってみたい。いろいろな人の意見を聞いて交流してみたい。とくに他の町村でどんな取り組みをやっているか知りたい」と訴えた。若月院長は黙って耳を傾けていたが、「みなさんが勉強したいという気持ちはとても大切だね」と答えた。そのとき、若月院長の目がキラリと光ったのを高見沢さんは見逃さなかった。まるで自分の心を見透かされているようで、とても恐ろしかったと回想している。
 セミナーはすぐには実現しなかった。スタッフもさらに内容の検討を重ねた。村の健康まつりに、健康管理部の担当者や衛生指導員たちが熱心に取り組んでいる様を見て、これなら大丈夫だろうと若月院長は判断したのであろう。一年経って漸く許可が出た。最終的に若月院長の「よし!やろう」のひと言があったとき、飯島さんは思わず全身が震えたという。 (かんとりい・とりお)

 この連載は、健管OBの松島松翠、横山孝子、飯嶋郁夫さん三人の共同執筆によるものです。“かんとりい・とりお”(country trio)とは「田舎の三人組」との意味。