〜「農民とともに」No.121〜




八千穂村健康管理
問題が続いた4年間
 昭和60年から63年までの4年間を、当時任期中だった衛生指導員たちは「激動の4年間」と呼ぶ。
 就任当時は13人の殆どが初対面だった。最初は早くお互いを知ろうと、また良き仲間づくりをしようと、何かにつけて一杯会をした。でも本当に心を合わせ、力を合わせることができたのは、健康まつりに初めて演劇に取り組んだときだった。監督を中心に、配役、スタッフ、役場、病院の担当が一つになり、すばらしい劇をつくり上げた。
 これがきっかけとなって、指導員が一つにまとまり、地域のためにどう取り組んでいこうかと張り切っていた矢先、役場の担当が代わってしまった。それ以後、婦人の健康づくり推進員の設置と役割の移管、衛生指導員廃止の問題、それに人間ドックの実施と、さまざまな大きな問題が続いた。
 役場の衛生係と衛生指導員は、健康管理の進め方で対立することもしばしばだった。ある意味では、衛生指導員の活動が試された時期だったし、成りゆきによっては、全村健康管理の根幹を揺るがしかねない問題も含んでいた。

もう一度原点に返って
 健康管理部の八千穂担当だった佐々木(現姓・菊池)徳子保健婦は、たまりかねて指導員会長の高見沢さんにこう手紙を書く。

小冊子「激動の4年間」と
衛生指導員会の記録の一部
 「善し悪しは別として、八千穂村健康管理が始まって以来の厳しい状況にあると思います。村がこれまでやって来たことをどう評価するかによっては、30年の歴史はある意味でひっくり返ってしまうかもしれません。(中略)
 個々の感情のすれちがいの問題もあるけれど、大局に立って、八千穂村全体の歴史と今後を考えたとき、今やらなければならないことは何かをお互いに考えなければいけないと思います。指導員さんたちも、冷静にもう一度原点に返って、これまで何のためにやってきたのかを振り返ってみる必要があるかもしれません」と。
 これには、病院の担当者もみな同じ思いであったろう。

指導員が小冊子をつくる
 ともあれ4年の任期が終わって、13名中10名の指導員がこれで交代することになった。そこで指導員たちは、4年間の活動記録と感想をまとめた「激動の4年間」という小冊子を作成した。これには、指導員だけでなく、役場、佐久病院の担当者の手記も同時に掲載されている。自主的にこのような手記集がまとめられたのは衛生指導員会では初めてで、それだけ任期中に出来事が多かったのだといえよう。
 その中で、高見沢さんはこれからの指導員活動として、次のように述べている。
 「やはり、基本は住民の意思を大事にし、住民の意見をどんどん把握して進めていかなければならないのではないだろうか。それには私たち指導員が各担当地区で、住民の要望によって定期的に会合を持ったり、学習会を開いたりして、住民の本当の、末端からの意見を聞いて、行政や医療機関へ上げていって、いい意味での住民主体の健康管理活動をしていかなければならないのではないか」と。
 その他、各指導員たちの日常活動を通しての八千穂村への切々たる思いが、この小冊子に見事にまとめられている。

演劇と研修旅行が楽しみ
 苦しく、つらかった日常の取り組みも、後になってみれば楽しい思い出だけが心に残るものだ。この小冊子には、4年間の良き思い出も数多く語られている。指導員としていちばん楽しかったのは、やはり演劇への取り組みと研修旅行であったという。

昭和62年岩手県沢内病院の玄関前で
 杉本末吉さんは、この期間中健康まつりの演劇には3回出演し、その渋い演技はいつも好評だったが、とても良い思い出になったという。また研修旅行については、「岩手県沢内村への研修旅行に参加して、先人たちの苦労を知ったり、岐阜県上矢作病院を訪れてその活動を学んだことはとても勉強になった。また毎年の忘年会、新年会、夏のビール大会も楽しい行事だった。4年間を振り返ってみると、苦労より楽しみが多くあった」と述べている。
 研修旅行にいちばん心をくだき、熱心だったのは実は役場の衛生係だった。観光だけでなく、もっと研修をやらなければいけないと、バス代を村で負担するよう予算をとってくれた。これはとてもありがたかったと高見沢さんは言う。それまではすべて自己負担だったのである。
 研修旅行には、役場や病院の担当者もいっしょに参加し、夜は大いに飲みあった。これが、お互いの感情のもつれの修復にも役立ったのはいうまでもない。

ちゃっかり巡回芸者に
 衛生指導員会ではよく酒を飲んだ。酒は活動の源泉であった。当時、村保健婦の竹内敦子さんは、「最初はなぜこんなに佐久の男たちはお酒を飲むのだろうと思いましたが、恐ろしいことにだんだん自分も染まってきて、いまや宴会がなければ何か物足りないような気さえします」と語っている。
 またかつては酒の付き合いはいつも憂鬱のほうだったという病院八千穂担当の征矢野(旧姓・小須田)文恵保健婦は、「おかげ様で、何かがあった後は決まって酒が出てくる佐久病院気質にすっかり染められ、今や片手におちょうし、片手にマイクのちゃっかり巡回芸者(?)になりすましています。人々とのかかわりの中で、自分はいろいろな面で成長させられてきているんだなあと改めて感じています」と記している。
 一方では、得ることも大きなものがあった4年間だったともいえよう。苦しくも楽しかった4年間がこうして終わった。 (かんとりい・とりお)

 この連載は、健管OBの松島松翠、横山孝子、飯嶋郁夫さん三人の共同執筆によるものです。“かんとりい・とりお”(country trio)とは「田舎の三人組」との意味。