〜「農民とともに」No.103〜




八千穂村健康管理
集まりが悪くなったぞ
「どうも最近は、母ちゃんたちの集まりが悪くなったぞ」「検診報告会にもさっぱり出なくなったね」「村にできた工場に働きに行っているらしいよ」などと、母ちゃんたちの集まりの悪さが衛生指導員の話題になり始めたのは、昭和44年頃のことだった。
 小さな電気部品工場が、村に増えてきたのは確かであった。指導員たちがザッとあげてみただけでも、国道沿いだけでなく山間の佐口区に4つ、八郡区も4つ、崎田区に3つなどと、村全域に50くらいが広がっていた。
 そこへ農家の母ちゃんたちが近所のよしみで頼まれたり、みんなが行くから自分もと希望したりで、あれよあれよという間に広がったらしい。検診報告会によく集まっていた女性たちが来なくなった理由は、やはりこれだった。

約5割の主婦が勤め出す

細かい電機部品の下請け仕事
 そこで衛生指導員会で話し合い、健診時に工場通いの実態を聞いてみることにした。その結果、驚いたことに、昭和44年の健診時には、30歳代・40歳代の主婦の5割が、村内の工場勤めか、その内職をしていることが分かった。
 しかし、健診会場ではいろいろ聞かれ、ただでさえ嫌われ気味の受付で、「工場に勤めていますか、どんな作業をしているの、1日にいくらくらいの稼ぎになるの…」などと、根ほり葉ほり質問するものだから、母ちゃんたちからはますます嫌われてしまった。「これは税金に関係しちゃうかなあ」「親類の家の工場だから変なことは言えないよ」などと曖昧な答えばかりで、なかなか実態がつかめない。
 そこで村の工場を直接回って、体調や生活などをインタビューすることになった。

コイル巻きやハンダ付け
 佐口の工場を案内しながら指導員の井出佐千雄さんは、「あのKさんのところは旦那は農業中心で、工場は奥さんが取り仕切っているだよ」などと予備知識を入れてくれる。だいたい山間部では農家の納屋や2階を改造したいわゆる納屋工場が多く、5人から9人くらいがテーブルを囲んでいる。小さな部品にコイルを巻いたり、ハンダ付け、製品の洗浄などが多く、いかにも器用な女性に向く仕事である。
 主婦たちは「私の仕事はこのミシン針みたいな棒の頭を、プレス機でつぶして箱に並べてゆくんだけど、つい頑張ってしまって、一日2万本くらいやってしまう。家に帰ると、もう目を開けていられないほどぐったり疲れてしまって」とか「自分のやった分を日毎に記録して、給料に計算されてゆくんです。不良品が多いといろいろ言われるんで、集中するから肩もこって」と、慣れない細かい仕事に神経を使って大変らしい。

シンナーやハンダの匂い
 国道沿いにはやや大型の独立工場も建てられている。弱電関係の中小企業の下請けや孫請けである。内職もここから出される。ハンダ付けの煙がもうもうと立ちこめていたり、洗浄に使うシンナーのような有機溶剤の匂いが漂う中で、主婦たちが黙々と手を動かしている。
 「肩こり」「目の疲れ」「視力が低下した」という主婦のほか、「薬品による皮膚かぶれ」も見られた。しかし「体質のせいだ」くらいにして、問題にすることを避けている。
 労働条件も良いとはいえず、体調も壊れる。それでも文句も出さずに働くのは、工場主への遠慮だけではなさそうである。

仲間と働くのは楽しい

農家の一部屋を利用した内職
 時給は100円から150円というから、1カ月2万円くらい。この頃の中卒初任給の3万円と比べてもかなりの低額だが、主婦が自分で自由にできる現金を手にすることの魅力と、会社に出れば友達との交流も生まれ、旅行など職場の催し物に参加でき、ストレス解消になるので楽しいという。
 家事や農業もあって、3つの役をやるのは大変じゃないかと聞くと「朝か夕方に農業はするし、いまの方が規則正しい生活ができて、時間を有効に使っている感じで充実している」といった答えが返ってくる。しかし一方、「でも、食事が簡単になったり出来合いを使うようになったのも事実だね」「子どものズボンに継ぎを当てるより、働いて新しい物を買った方が子どもも喜ぶし、自分も楽だワ」と使い捨て時代到来の声。

工場がつぶれてゆく
 しかし不景気も足早で、「俺の家のそばの工場は出遅れて大きく設備投資したために、じきに回転しづらくなって倒産して、大変な目に遭っていた」と語るのは衛生指導員の佐々木喜一郎さん。
 昭和45年に51あった工場が、46年には46社と減少し、新設もある代わりに廃業した会社が1年間で13社もあることが分かった。はじめは冬の農閑期だけの労働が許されていたのが通年型になり、やたらに休む者は首を切られるなど、労働条件も厳しくなった。
 主婦のいない家で病弱な年寄りと子どもがひっそりと、テレビを見ている光景がよく見られた。「カギっ子」という言葉も流行り出していた。
 指導員と一緒に、調査をまとめていた健康管理部の萩原篤さん(前事務長)は「電化ブームが安い労働力を求めて農村に進出してきた結果こうなった。農業収入は頭打ちだし、日本全体が大きく変化し、農村が揺れ動いている感じだった」と語る。
 折しも昭和45年には減反政策が始まった。(かんとりい・とりお)

 この連載は、健管OBの松島松翠、横山孝子、飯嶋郁夫さん三人の共同執筆によるものです。“かんとりい・とりお”(country trio)とは「田舎の三人組」との意味。