〜「農民とともに」No.101〜




八千穂村健康管理
除草剤で大やけど
 昭和41年の9月のことである。八千穂村の森林組合から、佐久病院の松島医師のところへ電話がかかってきた。「今、除草剤で体じゅう大やけどした人が出た。病院へ送るから、すぐ診てくれ」と言う。
 やがて2人の男性が担架に乗せられて病院へ運ばれてきた。診察の結果、とくに下半身のやけどがひどく、早速入院となった。事情を聞いてみると次のようである。
 2人は、村有林で除草の作業をしていた。使った薬剤はクロレートソーダ(塩素酸塩)という除草剤だった。これは山林の木々の間に生えるササやススキなどを枯らすためによく使われていた。
 ところがこの薬剤は発火しやすいというのが特徴である。ズボンに薬剤がついていたのを知らないで、タバコを吸ったところ、それが引火したということだった。
 後になって、村の保健婦の井出今さんが「私、除草剤で大やけどしたと聞いてびっくりしたんだけれど、除草剤が燃えるなんて知らなかった。除草剤といっても随分こわいものだわね」と述べたくらいだから、撒いた本人もそんな危険な除草剤だとはよく知らなかったのであろう。
 これは山林除草剤として古くからあった薬剤だが、ふつうの田畑には使っていないので、一般の人が知らないのも無理はない。だが、この種の薬剤はアメリカがベトナムの枯葉作戦で大いに使ったものだ。空から撒いて灌木や草が枯れたところで、全部焼き払ってしまうのである。
 2人はかなりの重症であったが、幸い命だけはとりとめた。

園芸作物の団地化へ
 かつての八千穂村の農業といえば、コメとカイコ(養蚕)が主であった。山間地とあってコメの収量は限られている。カイコの収入でなんとか生計も保てたので、村の人は「おカイコさん」と呼んでカイコを大事にした。しかしカイコの仕事は、主に女性に任されていたので、女性にとっては大変な重労働であった。当時のことを佐々木庫三・元村長さんは、「嫁さんなどはみなやせ細ったね。稚蚕のときは夜昼なかったし、早蚕になってもいい繭をとろうとすれば、夜も目をこすりこすり、がまんして桑をやる。そういうがまんが重なるから、繭があがったときには、皆げっそりとしていた」と述べている。

育苗への農薬散布
 しかし繭の値もだんだん下がり、コメとカイコだけではやっていけないということで、穂積農協と畑八農協(後に合併して八千穂農協となる)では、園芸作物の団地化を図るという方針を立てた。
 昭和30年代後半から40年代にかけて、リンゴの団地、キクの団地、野菜の団地が次
々とできていった。だがこれを機会に、一方では、農薬の使用量が飛躍的に増えていったたのは当然だった。
 古くから使われていた硫酸ニコチンやボルドー液と並んで、果樹や花には、戦後開発された新しい合成化学農薬が次々と使われるようになった。

ホリドールが登場
 キクの栽培にいちばん使ったのはホリドールであった。殺虫剤として当時ではいちばん強い薬剤だった。
 しかも皮膚からの吸収がとてもよい。諏訪地方で、ホリドールを希釈するのに、素手でかき回しているうちに意識がなくなり、ついには亡くなったということが新聞に出て大きな話題になった。
 健康管理を始めた八千穂村の住民といえども、農薬についての知識は十分ではなかった。農薬を撒くのは朝夕が主だったが、夏場の散布だからどうしても薄着だし、上に着るものもふつうのカッパだった。マスクも簡単なガーゼマスクだから、どうしても体に吸収してしまう。
 当時、農協の営農技術員として八千穂村を担当していた清水喜一郎さんも、防具のことは十分指導はしたけれども、なかなかうまくいかなかったという。
 だからホリドール散布後、多くの人は「具合が悪いや」と言って、午後は半日家でごろんとして寝ていた。「ホリドール撒いたから、今日は半日休みだ」と決めている人もいた。皮膚障害も多くキク消毒を毎年続けて、全身の皮膚病を起こし、30年経って未だに治らない人もいる。
 リンゴには硫酸ニコチンをよく使ったが、これも屡々中毒を起こした。清水さんによれば、夏場になると、ホリドールと硫酸ニコチンだけで、入院や病院通いをする人が村だけで10人はいたという。

中毒の実態を調べる
 そういうなかで、衛生指導員会では、「もう少し、農薬のことを知らなきゃいけないのではないか」ということで、勉強会で農薬のことを取り上げることにした。佐久病院の松島医師たちを呼んでいろいろ話を聞いた。その結果、農薬の影響は散布者だけでなく、農作物に残留したり、環境を汚すこともあるということを学んだ。

農薬皮膚炎
 しかし、なんと言っても直接農薬を撒く散布者自身の健康上のことがいちばん心配である。しかし実態はよく分からない。そこで佐久病院と一緒に「農薬使用者健康カレンダー」を作って、散布した後にどんな症状が出るかを毎日つけてもらうことにした。
 これは、カレンダー式になっていて、毎日、散布の有無、散布した場合はその農薬名、散布時間、防具の状態、散布した後どんな症状が出たかなどをつけることになっている。それに合わせて検診もやることにした。
 対象地区は、キクを主に栽培している穴原・崎田区と佐口区である。担当は前者が衛生指導員の渡辺一明さん、後者は井出佐千雄さんがやることになった。

4人に1人が中毒
 調査は、昭和41年の6月から9月まで行われた。その結果はとてもショッキングなものだった。頭痛や頭重感などの軽い症状も合わせると、農薬を多く使うその四カ月間に、男性では3人に1人、女性では5人に1人、平均して4人に1人が中毒症状を経験していたということが分かったのである。
 また、マスクや手袋は殆どつけず、顔に液がかかっても直ぐ洗うどころか、「涼しくて気持がいいや」などという人もいて、農薬知識の不十分さが浮きぼりにされた。
 これではいけないと、早速調査した地区では、散布者の検診報告会も合わせて、農薬使用にあたっての防具の徹底など、予防教育に力を入れることになった。
 その結果、次第に農薬の怖さが分かってきて、防具にも注意するようになったのはよかったのだが、逆に「あれを飲めば死ねるぞ」ということが伝わって、自殺に農薬が使われることが多くなった。農家だから、農薬はいつでも手に入る。自殺を防ぐ手だては甚だ難かしい。一難去ってまた一難であった。(かんとりい・とりお)

 この連載は、健管OBの松島松翠、横山孝子、飯嶋郁夫さん三人の共同執筆によるものです。“かんとりい・とりお”(country trio)とは「田舎の三人組」との意味。