〜「農民とともに」No.92〜



八千穂村健康管理
村と病院とのつながり
 村ぐるみの健康管理がなぜ八千穂村でできて、佐久病院の地元の臼田町でできなかったのか、という質問をよく受ける。
 当時の若月院長は、最初は臼田町でやりたかった。しかし臼田町ではそういう雰囲気になかなかならなかった。当時、臼田町は再建整備とか合併問題を抱えていて、そちらが忙しかったし、また病院がすぐ近くにあるから、いざというときに病院へ行けばいい、検診なんてという気持が、担当者の中にあったということもある。

村でたびたび上演した劇「はらいた」
 では八千穂村でなぜそういう雰囲気ができたのか。
 一つは、赤痢の大発生で予防に対する関心が高まっていた上に、佐久病院の出張診療班がたびたび八千穂村を訪れ、映画や演劇を上演しながら、健康教育をしていたということがある。それで自然に後の衛生指導員や村民とのつながりができた。
 もう一つは、当時八千穂村には村営の畑八診療所というのがあり、若月院長が月1回、定期的に診療を手伝っていたということがある。若月院長のことだから、診察が終わると必ず一杯飲む。当時の井出幸吉村長とも杯をかわしながら、大いに語りあった。この中から、村長との結びつきが次第に深まっていったことが大きい。

国保が半額窓口徴収に
 そのような中で、国保半額窓口徴収の問題が起こり、八千穂村では村をあげて反対運動を行った。これが、村ぐるみの健康管理を行う直接のきっかけとなった。
 当時の国民健康保険は、窓口ですぐ自己負担分を払う必要がなく、現金を持っていかなくても医者にかかれた。5割の自己負担分は後払いで、後で役場の人が集めに来たときに払えばよかった。
 ところが戦後、農家の生活は苦しく、それが払えない人が多くなって、役場は大変困った。未収は全部役場の負担になってしまうので村が赤字になる。その原因は国保にあるというので、「国保は村のがんである」などという声も出てきた。昭和20年代の初め、多くの町村長は、できれば国保をやめたいと考えていた。
 しかし、国保を廃止するのは困るという声も一方ではあった。国も対応が必要と思いながらも延ばしていたが、町村の財政赤字が次第に膨らんでくるに及んで、ついに昭和32年に、国保半額窓口徴収の方針を打ち出した。

井出村長が絶対反対
 医療費の半分をすぐ医療機関の窓口で払ってもらえば、町村としては取り立てをしなくともよいし、赤字も減る。
 これには南佐久の各町村は諸手をあげて賛成した。地元の医師会も賛成だった。「現金が半分でもすぐ入るのだから、この方がよい」というのだった。国保が赤字で、医師に対する医療費の支払いも滞りがちであったのである。
 ところがこれに対して、井出村長は真先に反対の手を上げた。その当時は、今と違って農家には農外収入がなかった。養蚕のお金が入る盆とコメの代金が入る暮れ以外は現金がない。医療費の五割負担といえば相当な額になる。これでは貧しい農民は、病気になっても医者にかかれない。受診抑制になって、ますます「がまん型」が増える心配があるというのが、その理由であった。
 村長は、村会議員を引きつれて県庁に何度も押しかけ、この制度を止めるように要望した。しかし国が決めたことなので、長野県だけではどうにもならなかった。1年以上反対運動を続けたけれども、結局この要望は通らず、窓口徴収の制度は予定どおり実施された。

「村の木を売れ」と村長
 しかし八千穂村だけは、窓口支払いをすぐには実施しなかった。村の出浦医師も、金のない人は支払いは後でよいという主義だったから、窓口徴収などとんでもないという考えだった。医師会で、「村医の私が言うのだから、八千穂村だけは窓口徴収を延期してほしい」と要望、医師会も八千穂村だけは特例として、窓口徴収を延期することを認めた。

健康管理の相談をする井出村長(左端)と
若月院長(右から二人目)
 井出村長は、衛生係の間島さんを呼んで、「お前、少し金を用意しておけ。村で立て替えるだぞ」と指示した。個人負担の分は村の木を売って、村で負担しようという考えであった。
 八千穂村がやむを得ず窓口支払いを認めたのは、他の町村より1年半ばかり遅れてからであった。しかも自己負担は他の町村では五割負担だったが、八千穂村ではとくに3割負担とした。
 それでも現金のない時代に医療費を払うのは大変だった。当時環境衛生指導員だった井出佐千雄さんは、窓口徴収が実施されてから、村民のいろいろな声を聞いた。医療費の工面のためにブタや牛を売ったとか、入院料は10日ごとに支払わねばならぬので、遂に金が続かず、やむを得ず中途退院をしなければならなくなったとか。


村ぐるみの健康管理へ
 井出村長が手おくれの増加を心配していたときに、若月院長から、手おくれをなくすために、いっそのこと全村の健康管理をやってはとの話があった。井出村長は「なるほど、それはよい。私どもは、今までは病気になった人を何とかしようとして、窓口現金徴収の反対運動をしてきたが、それよりも病人をつくらないように、佐久病院の援助を受けて、村をあげて、この健康を守る運動に取り組もうではないか」と決心した。
 そこで村民に呼びかけて、村ぐるみの健康管理を始めることになったのである。昭和34年7月のことであった。
(かんとりい・とりお)

 この連載は、健管OBの松島松翠、横山孝子、飯嶋郁夫さん三人の共同執筆によるものです。“かんとりい・とりお”(country trio)とは「田舎の三人組」との意味。