3年目を迎えたやちほの家は、毎日10人を越えるお年寄りに職員、そして学生やボランティアを含め多いときは20人もの大所帯となる。いつの間にか私は「やちほの家の嫁さん」となり、靖君は「この家の息子」と呼ばれている。お年寄りたちも、年々重度化しているものの、良く働き、良く食べ、良く笑っている。
 やちほの家の生活は、風呂に入ること生活作業をすることゆっくり休むことが中心であるが、もちろんその主役はお年寄りである。毎日同じように繰り返される生活活動の流れが、お年寄りにとって見通しの利いた、すぐに結果が見えやすい生活行動につながっていくため、お年寄りたちをより一層主体的に、安定させているのである。
 認知症者のケアにとって、行動の動機づけ、意味づけは大切になる。言葉からの情報処理能力がうまくいかず、コミュニケーションが苦手になる認知症にとって、多くの言葉による説明や説得、言い聞かせは逆効果で、混乱を招くことも少なくない。また、便秘等体の不調をうまく訴えられないことによる不穏も、日常のケアでは見逃すことができない。だからこそ、生活行動からの体調観察は毎日のケアに欠かせない。
 さっきやったこともすっかり忘れてしまうけど、瞬間瞬間をいい気分で過ごすこと。いい気分でいられる時間の積み重ねが多ければ多いほど、生活は落ち着いた穏やかなものとなり、表情も安定してくる。だから職員は1人ひとりお年寄りに寄り添うことで、行動の背景にある大切なことに気づかされるのである。更に、仲間との相互関係が生み出すプラスとマイナスの力を、お年寄り自身の力を借りながら匙加減することで、日々、お年寄りたちがいい気分で過ごせるための環境づくりに精を出している。
 幸いやちほの家は民家のため、生活感にあふれている。風呂場からは、湯気や石鹸のにおいが漂い、ドライヤーの音や鼻歌も聞こえる。風呂場は、1対1・2で関わる場として大切なケアの場である。「風呂に入ろう、体を綺麗にしよう」という促しには拒み、「心配だから体を見せとくれ」「風呂洗いを手伝っておくれ」「背中を流しておくれ」にすんなり行動を起こすお年寄りたち。
 ストーブの前には、山盛りになった洗濯物を無造作に置いておく。お年寄りたちは部屋に入るなり、目に付いた洗濯物に誰もが手を出してくる。「休みな、後でやりな」といっても、目の前にあるものが常に気になるのだ。ひと仕事してからのお茶には意味があり、ひとっ風呂浴びてからのお茶にも意味がある。
 お勝手には太い大根と20もの洗ったジャガイモ、ゴボウ、リンゴが待っている。外には、芽の出たジャガイモが袋から出されている。お茶がひと段落したところで、「女衆にお勝手のお手伝いを頼んでいいかい」と職員がお願いしながら目の前に順番に野菜を差し出す。混乱しないように、作業は常に一つずつ始める。「男衆は外仕事を頼みたいよ」と別の職員が声をかける。包丁とまな板の歩調が響く。皮挽きからむき出される、白や赤や茶の皮が鮮やかである。ここのところ優しい春の日差しが、重ね着をしている男衆の体から1枚、また1枚と服を脱がせてくれている。