とっくに90を越えたというおじいさんは、突然訪ねた私をようやく玄関先で迎えてくれた。玄関ドアの開閉時の渋い抵抗感に、日常的に人の出入りのない状況が察しられる。適度な間隔で声をかけ、ふた間向こうから聞こえてくる、音域の違った二つの声を確認しながら、辛抱強く待った甲斐があった。
 ゆっくり杖をついて出てきた老人は、音量のある声に加え、紳士的で口調は丁寧であったが、素性のわからない訪問客に、猜疑心を持った目を向けた。家の中へ足を入れることは歓迎されていない。得意の介入の技を駆使し、次回の訪問の約束を取り、その日は潔く退散した。
  玄関右の応接室には黒ピアノとソファがある。方向性を失った書物や書類が、お客側のソファをも埋め尽くしていた。空いたスペースに申し訳ないように、軽く置いたお尻は、おじいさんの座ったソファの、しなやかな曲線とは対照的であった。この座り慣れたソファも、多分おじいさんが日常的に過ごす空間のひとつなのだろう。
 しかし、八畳間もある客室は、もはや余暇空間ではなく、日々の生活上で、処分もできず、片付けもできない行き場を失った残物の物置部屋に化していた。カーテンは窓いっぱいに開けられることなく、角がレールから外れダラリとしている。いつ人の手が入ったかわからない絨毯敷きの床は、コロコロした乾ききった異物が散らばり、部屋全体に異臭を放っている。すでに大量の鼠との共同生活にもなっていたのである。
 おじいさん側のドアの向こうは、二人の日常的な居室になっているが、接客中は決してそのドアが開くことはない。玄関側のドアがノックされ、化粧をした品のあるおばあさんが現れる。おばあさんが持ってくるお盆の上には、2つのコップに注いだばかりのサイダーが、底から上に向かって気泡を出している。おばあさんはロングエプロンをして、にこやかに挨拶をする。おじいさんの指示にようやくサイダーを差し出すとすぐに部屋から出て行く。おじいさんは、12歳年下のおばあさんと20年前に再婚している。長年都会で仕事を続けてきた、ハイカラなおばあさんとの再婚は、その頃大きな話題を呼んだという。私が訪れるたびに、おばあさんは同じロングエプロンをして、サイダーを出してくれ、やっぱり初対面の挨拶をにこにことする。
 リサイクル法が定まって、家庭ゴミ処理の自己責任が問われている。分別が不十分なために回収してもらえないゴミ。指定袋や指定日が無視されたゴミは、瞬く間にカラスに突かれ散乱し、ゴミ処理に関わる多くの担当者の頭を悩ませている。家庭ゴミは、その家庭の生活障害を鑑みる材料にもなるばかりか、地域の人間関係の歪みを深めるきっかけになることも少なくない。
  おじいさんの駐車場にも、缶、ビン、衣類等が買い物袋に入ったまま大量に置かれている。ここまで近所、親戚の助け合いでやりくりしてきたものの、もう公的なサービスを導入しないと限界がきていたのである。何とかおじいさんにうまく関われないと、次に進めない多くの課題を抱えていたのである。
  おじいさんの現役時代の成功体験や、貢献実績に辛抱強く数時間耳を傾けた後、ようやくお願いする。「今まで社会にこんなに貢献してきてくれたのだから、今度は少し私たちにお手伝いをさせてくれませんか?せめてゴミの片付けぐらい、力になりたいな。そのくらいはさせてくださいませんか?」 (続)