高齢に加え、心身に障害を持つことにより、閉じこもりがちになったり、家族との交流がうまくいかず、家庭内での孤立を招いてしまうお年寄りも少なくない。それぞれ忙しく生活をこなしている家族に対し、時間が止まりかけた置き時計のような、自分本位でゆっくりとしたお年寄りの行動。その中で失なわれていくお年寄りの存在感や役割。これらが、顕在化しやすい心身の不安や不調として転化され、一方で医療依存のお年寄りが作り出されている。
 しかし、障害を抱えたお年寄りが、現状に気づき、問題解決への行動に自ら乗り出すことは少ない。むしろ現状の日常化の蓄積に身を任せているようにさえ見受けられる。
 そうした日常に、加齢とともに認知症という病気が忍び込んでくることで起こる、人と人との関係障害。中でも家族内での関係障害は、嫁・姑・家・責任などといった「しがらみ」を背負ったものが絡むので複雑性を増す。加えて顕在化してくる生活障害や身体障害が、介護者の認知症者への対応の仕方や病気の進行などによって、時には不安定に、時には落ち着いた状態でと、波を持って出現してくる。介護者の多くは、長い経過を辿る介護に、振り回され疲れてしまうことも少なくない。だからこそ、家族対応と地域の理解と協力は、認知症ケアにおいて重要な鍵を握っている。 
 認知症は、記憶の障害を特徴とする病気である。やちほの家のお年寄りも、何度も同じことを言いくどい話をするのが得意であり、人の世話を焼く上、人のせいにするのも上手。言い訳やその場をつくろいで逃げるのもお手のもの。更に職員の見ていないところで、弱い人に指示・命令をし、上手に使っているのにも感心である。人の役割をとったり、けなしたり、中には、自分の世界に入ったまま同じ行動を繰り返している。
 こうした日常の中で、適度な距離間を職員が調整しながら、共働の生活作業をすることで、相互の関係力を活かした折り合いが成立すれば、関係障害は悪化せず、いい加減に生活は収まっていく。
 やちほの家で見られる生活障害では、食べた物を忘れるのは日常的で中には食べたことを忘れる人もいる。「まだ飯を食っていない」と言われても「ご飯までこの漬け物でもどうだい」と差し出せばそれで事は終わりである。
 毎日1人1枚の皿に5品程度のおかずを分担して盛りつける。見本通りに順序よく盛りつけはできないが、何とかおかずの数だけ帳尻が合えばそれで良し。ひとつ盛りは、食べ忘れを防いでくれる。時には盛りつけながら口に入ってしまうが、量を減らせば何人分でも調整はできる。先日青梅を平気で生で食べていたが、下痢もしない。たいしたものだ。
 昼食は共食。一口大に刻んだおかずを一気に頬張って真っ赤になって咽せている。適度な一口量を忘れてしまっている。「咽せているうちは心配ない」と、何食わぬ態度で接していれば、周囲の動揺も混乱もない。ここでもいい加減に生活は収まっていく。