佐久総合病院ニュースアーカイブス  





 玄関の引き戸を開けると、中からの冷気が頬を打つ。2枚履きにした靴下の下から、冷え切った畳の感触が足の裏を刺す。肩をすくめながら、小走りに部屋中を回る。ポットから出る力のない白い湯気を、やかんに移すと幾分生ぬるい。今日は相当冷え込んでいる。しばらくすると、思い思いの音が響き渡り、じわじわとした暖かい空気が家の中を覆っていく。
 車に乗り込むと、フロントガラスからの視界はまだ狭い。じいちゃんのところまでは3分。「おはようございます」テレビを遮るようにじいちゃんの視界の中に体を入れると、ようやくお迎えに気がつく。じいちゃんの耳は相当遠いのである。「ごくろうさま」言葉数の少ないじいちゃんの「ことば」は、何故か一つひとつ心に響く。
 もともとじいちゃんには、本人の納得した気ままな生活スタイルがあった。それが、入院と老健利用で長期的に中断され、ごうが湧いた。「こんな所に俺を閉じこめておいて、家に帰れないのなら死んだ方がマシだ」。
 しかし、見るからにじいちゃんの体力は数段落ちていて、昼間の1人での生活は誰が見ても厳しい状態だった。「父さんがやちほの家へ納得して通ってくれるといいんだけれど」とお嫁さんの不安は尽きない。
 じいちゃんには持病がある。かつて数年間単身赴任した時、家族から離れた寂しさもあって始めた酒が原因だという。妻を亡くして8年、酒は常にじいちゃんの寂しさを癒し、生活の大きな楽しみを占めていた。月1回の外来受診には、好きな酒の肴を買うのが何よりの楽しみだった。そんなじいちゃんは、今は一滴も飲めない。
 毎日乗る福祉車両のリフトの操作は、じいちゃんがやる。小刻みに進むじいちゃんの足取りは、いつもの座敷の定位置に向かう。すっかり暖まったコタツに身を沈める。「おはようございます」。次々に出勤して来る職員の明るい声に、下向きの目線を幾分上に向けながら1人ひとりに頷く。じいちゃんは、ココアが大好きだ。やちほの家特製の柿干しをほおばって、ココアを啜る。不思議と好きな物を飲むときにはむせがない。目の前に大量の洗濯物が降ろされると、自分から手を伸ばして、タオルたたみを始めるこの頃である。
 88歳になるじいちゃんは、よく尿路感染による高熱に襲われる。食事量が減り始め、便秘が長引くと要注意だ。突然の高熱は、じいちゃんの心身の機能を180度変えてしまう。じいちゃんの毎日の生活リズムが一変するだけでなく、介護リズムも合わせて一変する。入院で中断されたじいちゃんの生活は、点滴と自分の意思に反した安静。何処にいるのかわからずウロウロするじいちゃんは、しばらくして、揺すっても起きないほどの深い眠りに陥っていた。
 退院した日は、始終ウトウトしていた。お昼にやっと起き上がると、堰を切ったようにしゃべり続けた。「何人もの女が目の前に居て、そりゃ強い女だった」と。その後も昏々と眠り続けた。